もし酸素が有料だったとしたならば、年齢に応じて一定の金額を納めるだけなら嫌々ながらも諦めようがあるが、何らかの計測機を持たされ吸う量によって金額が変わるとしたら誰もが出来るだけ酸素料金を安く抑えるために空気を吸う量を減らす工夫をするだろう。
空気を深く眠っている時くらい減らすことが出来るヨガが空前の大ブームを巻起こし、夏休みや正月休みを理由し、海外へ高地トレーニングに出向く者もいるだろう。
中には、大きな穴を掘りその中で暮らして酸素料金を抑えようとする家族も出て来るかもしれない。
その反対に国内でスポーツなどの運動をする者は極端に減り、『有酸素運動』などという言葉は、今でいう『乗馬』や、『ポロ』などと同じくらい高貴なイメージがつき一般的に親しみのない言葉になるだろう。
一度、酸素料金が高騰したなら、『有酸素運動』は『黒魔術』というような言葉に近い形で使われるかもしれない。
しかし、今のところ酸素は無料だ。あらゆるものが有料なこの世界だが酸素は無料なのだ。
だから、空気を吸う度に感謝の気持ちを…などとは少しも思わないが、価値に関して考え出すと酸素無料で良かったと阿呆の小学生のようなことを思ってしまう。
僕が痛切に欲しいのは、『手ぶら』だ。
僕にとっては両手に何も持っていない状態が手ぶらで、袈裟がけのカバンや、リュックは無いにこしたことはないが大人なので、あっても仕方がない。
僕が思うに、『飲みやすいように曲がるストロー』と手ぶらほど過小評価されている価値は他にないのではないか?
手ぶらでも行けるのに手ぶらで行かないのは、曲がるストローを曲げず真直ぐの状態で飲み物を飲むのと同じことだ。いやそれ以上だ。
大きい荷物なら諦めもつく。しかし小さい物で、変わりがあって後からでも手に入る物なら基本的に僕は持ちたくない。
傘を持ちたくない理由も、一つは手ぶらを尊重しているからだ。雨に濡れているが手ぶらな自分は、決して不幸ではない。
だから、手ぶらで歩けることは凄く楽しいことで、とても有意義なことなのだが、だからといって物をバンバン捨てるわけには行かないので毎日ストレスが溜まる。
そのような時、僕が頭に思い浮かべるのは大きなカゴに入った大量の携帯電話を順番に手に取り、そして固い石の壁に向かって、おもいっきり投げて破壊することだ。開いた状態で投げても良いし、閉じた状態で投げても良い。
リアルに1時間手ぶらで歩ける権利に僕は600円なら払える。月に自由に使えるお金が2万円あるとしたら600円なら余裕で払える。
本当に疲れてて、何にも囚われず自由に歩きたい時なら1000円まで払える。現に僕はコインロッカーを頻繁に使っている。よっぽど大事なものか、その時に必要なもの以外は一切いらないのだ。
持てて本だ。文庫本はポケットに入れるが、単行本は手に持つこともある。
本は後から読む瞬間を想像すると、その重さを上回る満足感を得られるのであまり苦痛に感じない。
飲み物は飲みたい時に買う。飲みたくなるまで1時間か、30分か、持って歩くのは苦痛だ。食べ物も同様だ。
たまに大家さんだったり、知り合いのおばさんからパンなどを頂くことがあって、今から散歩しようと思っていたのに20分程かけてわざわざ自宅までパンを置きに行き再び散歩に出掛けることもよくある。
さすがに頂いた物は捨てれない。それに好意自体は凄く嬉しい。ただ精神的には苦痛だ。重い。
600円の、もしくは1000円の手ぶら状態を剥奪しても許されるものは本以外だと中々難しいのかもしれない。
価値の基準は人それぞれ違うのだろうが、僕にとって手ぶらは非常に重要な状態なのだ。