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チラシ

メガネ屋のチラシを貰っても困るものがある。

街中で無差別に配ると、半分程は完全に無駄なものになってしまうチラシの一つだと以前から思っていた。

例えば鰻屋のチラシを貰えば、その時に腹が減っておらず、鰻など全く食う気がしないと思っていても、『鰻屋がそこにある』と記憶が上書きされるので、いつか腹は減っているが何を食べれば良いか解らず途方に暮れている時に『鰻』という選択肢が出来るので効果はある。

しかし、メガネ屋のチラシを貰っても、視力が良い人間にとってはメガネをかけている家族や友達の付き添いのほかに行くことが無い。

すると折角のカラー印刷されたチラシが無駄になってしまう。チラシを受け取る所作も無駄になってしまう。全く同じ動きでハガキをポストに投函することも出来るし、ヤギに餌をあげることも出来る。

しかし、メガネをかけている人やコンタクトレンズを使用している人からすれば有効なチラシであることは間違ない。

そして、コンタクトレンズがある限りメガネをかけている人だけに限定してチラシを配るというわけにも行かないのだ。

だから僕はメガネ屋のチラシを配っている人を見つけたら、大分手前から『眼が良いような顔』で歩くのだが、やはりそんな顔は自分の気持ちだけの問題であり、『眼が良さそうな顔』の規範が世間に流布していない限り、僕が考案した『眼が良さそうな顔』を、相手が『チラシを異常に欲しがっている顔』と捉えても仕方がないのだ。

しかしそういったシチュエーションは滅多に起きない。ティッシュ配りなら頻繁に出会うものだが、メガネ屋のチラシはそうそうない。コンタクト屋のチラシでもそんなにないのだから。

しかし、そんな滅多にないシチュエーションが、いま目の前に起きていた。そして案の定チラシは差し出される。

意味が無いし無駄になるから受け取らないのだが、この相手からの干渉を一方的に遮断するという行為を実行するにあたって自分の感情が微塵も動かないかというと、そんなことは無く少量ではあるが確かに罪悪感が生じる。

前方でメガネ屋のチラシを配っている男の人と眼が合った。僕は咄嗟に『眼が良さそうな顔』を作った。

チラシを配る男の人が意味ありげに深く頷いた。僕の渾身の『眼が良さそうな顔』が伝わったのだろうか?

チラシを配る男の人の横を通ると、やはりチラシを渡された。全然伝わって無かった。よくよく考えると今日はメガネをかけていた。

メガネ屋のチラシを配っている人からすれば、『来た!来た!来た!来た!来た!来た!来た!来た!』と思ったことだろう。

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