京都で歩いていたときのこと。
歩道に何か大きく黒い物体が倒れていた。近寄ってみると、その物体はうつぶせで倒れている中年男性のようだった。
咄嗟に助けなくてはと思い声を掛けようとしたが、ふと思いついたことがあって言葉を飲み込んだ。もしかするとこの男性、眠っているだけかもしれない。
もしも声を掛けて無理やり起こしてしまい、『眠れないから子守歌を唄え』と言われたら災難だ。僕は歌唱力が無いし、ちゃんと唄いきれる子守歌も覚えていないから。
だからといって、知らぬふりをして通り過ぎるには、あまりにもインパクトが強過ぎる風景だ。
なんせ歩道にうつぶせで倒れる男性なんてそうそうお目にかかれるもんじゃない。いや、大阪の新世界の中ならいそうな気がするけれど。実際に男性が路上で寝ていることがあった。しかも裸で。
駆けつけたお巡りさんにその男性は「暑いから裸になって寝ていた」と言った。ほんまかいなって話だけれど、新世界では男性がうつぶせで倒れていても不思議でじゃない。
だけどここは京都だ。新世界ではない。事故の可能性も充分に考えられる。迷っている場合ではない。勇気を出して声を掛けた。横を自転車が二台通過した。
黒い物体は反応を示さない。トントンと背中を叩いて見ると、ようやく髪とか服の中から顔が出て来た。思った通り、中年の男性だった。
『大丈夫ですか?』と声を掛けたら、『涼んだら帰ります。ありがとうございます』と男性が言った。
『そうですか、起こしてすみません』と僕が言うと、『いえ、こちらこそすみません』と男性は応えた。
しっかりした口調だし問題は無いだろう。自分の意志で男性は眠っていたのだ。正直に言うと、依然巨大な違和感は心にあるのだが、まぁいい。
男性に背を向け行こうとすると、男性に『どこから来たんですか?』と聞かれた。僕は振り返ると指で七条方面を差して、『あっちです』と答えた。
すると男性は、『いやいや!そういう事じゃなくて!大阪とかぁ!関東とかぁ!観光?』と急に口調とテンションがフランクになったので恐ろしくなってしまった。
『あっ、大阪です』と僕は答え一刻も早くこの場を去ろうと再び歩き出した。男性が僕に、『お気をつけて』と言った。もう一度振り返ると、やはり男性は寝たままの体勢だった。『あんたや』と思った。
あの時、もしも男性が僕の眼を見て、『交代』と言ったら、今度は僕が男性の代わりにあの場でうつぶせになり、次の人が来るまで待たなければならなかったのでは?などと意味のない無駄なことを考えていたら、自分の中で不安が膨れ上がって行くのがわかった。
祇園四条の灯が見えた途端早歩きになった。めっちゃびびってるやん。