部屋の扉をドンドンと叩かれた。叩き方が荒かったので知り合いではないと思った。
大家だろうか?しかし家賃は毎月納めているし、近所迷惑になるような騒音を出した覚えもない。
一応部屋の中から扉を開けずに、『はい』と返事をしてみたが相手は黙っている。気味が悪いので、僕も途中からではあるが居留守という形をとろうと思い黙ることにした。
扉をはさんで無言の二人。だが、この扉は僕の部屋の扉なので精神的には僕の方が圧倒的に不利だ。
静寂の中で、僕は先ほど、『はい』と応えてしまったことを後悔していた。僕は居留守を使う上で絶対にとってはいけない行動をとってしまったのだ。
そのため中途半端な居留守になり、厳しく言えばもはや居留守でもなんでもないのである。
しかし前向きに捉えれば居るのに扉を開かないというのは僕の意志を真直ぐに表現することでもあり、『そういうことなのでお引き取り下さい』ということなのだが、扉の向こうの誰かは一向に立ち去る気配を見せない。
何故そんなことがわかるのかというと僕のアパートは築60年以上で、傾いた廊下は京都知恩院にある鶯張りの廊下よりも遥かに汚い音ではあるが、京都知恩院にある鶯張りの廊下よりも遥かに大きな音が鳴り防犯には優れているのである。怖いなぁ。何だろう?何も悪いことをしていないのに不安になってきた。
60秒くらいたち、ようやく誰かは僕の部屋の前から立ち去った。廊下を踏む音が徐々に遠ざかり階段をおりる音が聞こえた。
誰だったのだろう?このままでは不安は解消されない。僕はサンダルをはいて音をたてないようにゆっくりと扉を開こうとしたが、ギイギイと結局音は鳴るので神経質ななるのは諦め普通に外に出て階段をおりた。
その誰かは、恐らく60代と思しき見たことのない男だった。
男は汚い野球帽をかぶり自転車に跨がってゆっくりと進んでいた。
僕はその男を後ろから歩いて追いかけたが、追いつくつもりもなかったし、ただ危険な男ではないという自分が安心出来る何か証拠を発見してさっさと部屋に戻りたかった。
男が角を曲がった。その角まで行くと空き地で女の子が穴を掘っていた。
その女の子が、『貴様は誰だ?』という眼で僕を見ていたので出来るだけその子の近くには立ち止まりたくなかったのだが、そこを越えると得体の知れない男との距離が詰まりすぎるのも怖かったので女の子に背を向けてしばらく立っていた。
男はというと、周囲を見渡しながら時々立ち止まり観察するように建物をじっくりと眺め、しばらくすると再び自転車で走り出し、また立ち止まるのという行動を何度も繰り返していた。
男は犬を見つけると、自転車を止め可愛がっているのか、馬鹿にしているのか解らないような態度で犬に手をふり微笑んだ。僕の男に対する恐怖心は更に大きくなった。
長い時間男の後を追っていたので、いつの間にか自分の家からだいぶ離れてしまった。
男が自転車で通った後の道で中年の女性と老婆が何やら話合っていたので、あの男の話かもしれないと思い僕もその会議に交ざろうと、近寄って行くと、『この靴、一足だと二千円なんだけど、二足だと…』とどうでもいい会話をしていて二人は僕の存在に気がつくと、『貴様は誰だ?』という冷たい眼で見てきたので色々と馬鹿らしくなり帰ることにした。
帰りに空き地の横を通ると女の子はもうおらず、穴を見るとすぐに底が見えて全然掘れてなかった。これからしばらくは戸締まりをしっかりとしようと思った。